記事の書き始めの挨拶をどうしたらよいかわかりません。
いままでは、「はじめまして、ひぐちです。」でゴリ押していたんですが、わたくし日記第二シーズンにはいってひぐちという面影がゼロになってしまたのでこの挨拶は当分使えないですね。
まぁ、気軽に生きましょう。
滑らかな人生を送りたい。
いつの間にかお花見シーズンも通り過ぎようとしていますが、最後にお花見したのは小学校5年生のときだったなぁ、とか思ったり。
小学生ってなにしてたっけーとたまーに考えたりします。テレビ見てDSやって友達と外で遊んで、いちおう宿題もやって、みたいな?
昔だから
ではなく
中身がないから
覚えていない感マシマシです。油は少なめがいいです。
でも、中身が少ないって当たり前だよな、とも思ったり。圧倒的に経験できることの数が違いますからね。高校生と小学生。
あと考え事をする量も圧倒的に違います。小学生のボクに考え事なんてあったのかな。
ピアノ練習してなくてレッスン行きたくないなーくらいしか考えていなかったと思います。幸せな日々だったなー。
ここでね、ふとthinkingしたりします。
中身が少ない、悩み事がほとんどない人生と、中身が濃い、考え事もそれなりにある人生、どっちも幸せだけど幸せの種類は同じなのかい?てきーなテキーラ。
「マジで最近忙しすぎるー。そのぶん何もしなくてよかったあの頃は楽でしあわせだったなー」
この会話、聞いたことはあると思います、似たような趣旨のも含め。
この「幸せ」の濃さ、薄くないか?トウダイイガクブ頭悪くないか?
「あー、学校生活忙しすぎて幸せー」
このパターンもありますよね。
この「幸せ」の濃さ、濃厚じゃないか?ホントウだからだ!
やることが少ない時の幸せは「楽さ」の焦点が合って、やることが多い時の幸せは「内容の濃さ」に焦点があるヨネ。
この先の人生、どっちのカタチの「幸せ」を求めて生きればよいのでしょうか。
どっちが正しくてどっちが間違いとか、どっちが成功者でどっちが逃げているとかもないと思いますが。
ボクは圧倒的に後者の人間でありたい。とか思っちゃっタリ……
意識高い系の向上心があるタイプの人は後者の幸せしか見てなさそうですよね。
本質的な、というか未来志向型の「幸せ」は後者ですよね。
チョビットだけ真面目になると、
幸せには2パターン、過去志向系と未来志向系があって、日々の濃さが関係している?
横軸を<日々の濃さ>、縦軸を<幸福度>とする無理関数のグラフに表せるのでは?
アが未来志向、イが過去志向
まぁ、グラフにするのには無理がありすぎて、「日々の濃さが-ってなんやねん」
とか、「もっと適切な関数グラフが存在するぞ」とかありそうですが。